2005年4月からこのブログをやってきて、おかげで最近はアクセスも非常に上がってきたが、これだけ記事が貯まって、しかも去年から毎日更新などを心がけてやってきたのでさらに記事は貯まり、ついに僕自身でもこのブログの全記事を把握するのが難しくなってきた。
いつ、どんなことを書いたか、今までは結構把握して自分の中で管理出来ていたような気がするんだけど、流石にもうわからなくなってきた。
自分の特に強く思ったことや絶対に紹介したいと思って書いてきたことならまだしも良かったが、特にネットから拾ってきた面白ネタなんかを毎日紹介したりしてからホントもう、今ではよーわからん状態だ。
このブログはあくまでも個人の日記サイトなので、
そうやって全記事が把握できなくなったということがなんだか妙に寂しい様な気もする今日この頃です。
ま、こうして長く続けていれば、いずれはこういった問題は必ず生じることなんだろうけど。
それに初期の頃に僕が考えていたことなど、今では全然そうは思わないというか、
考え方が変わっている部分もあるし、そういう意味では初期の頃の記事はちょっとした黒歴史とも言えるというくらい、既に僕自身が把握していない。
(逆に今でもまったくその通りに思うことも多々あるし、予言めいた事を言っている記事もあるんだよね・・。)
記事を書く対象もなんとなく変わった。
初めの頃は僕自身の友人知人しかこのブログの観閲者はいなかったし、
なんとなくそういう人達と自分自身に向けて書いていた部分もある。
しかし現在では、おそらくそれらの友人知人で今も見ているという人はほぼいないのではないだろうか・・・と思う。(ていうか居たら連絡下さい!)
最近はやはり「ひろぶろのまとめ記事」に関する言葉で検索から来られる人や、
何故か「羽生善治伝説」という様な言葉でこのブログに来てくれる人が多い。
それ以外では「サムアップポーズ」の記事で来られる方も多い。
なので初期の頃と比べて、書く対象がなんとなくだがもっと不特定多数に向けられるようになってきているように思う。
また、最近は「ものの終わり方」についてよく考えるようになった。
何事もそうだけど、全ての物事には必ず終わりが来る。
このブログだってそうだ。いつかは終わる。
今僕がやっている仕事についてもそうだ。
で、その時、その終わり方は、予め自分で決めていた終わり方で、自分で辞めるという事が非常に大切だと思うようになって来た。それは別にカダフィー大佐の最後に影響されたとかそういうことじゃないけど、永遠を妄想し、或いは終わりについてあまり考えておらず、最後に他動的で不本意に、辞めなければならないような状態にされたり終わらされたりすると、これが仕事などの場合は特に、その後の計画とかも立たなくなってしまうし、大抵の場合、結構悲惨なもんだ。悲壮感とか漂っちゃうよね。
なので、とにかく物事を始める時、
必ず「どうやって終わるか?」ということについても予め考えて始めるべきなのじゃないかと思う最近です。
以前、フォレスト・ウィテカーの「ゴースト・ドッグ」という、ジムジャームッシュ監督作品の映画を見たことがあったけど、あの映画の中でフォレスト・ウィテカーが心酔するサムライの生き方というのが結局そういうことであった。
これは武士道について書かれた実際の書物「葉隠」に影響された主人公が、
その中に書かれた有名な一説「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉を実践していく話し。
つまり武士とは「自分の決めた時に自分が決めた死に方で死ぬのが最も美しく良い」とする美学のことで、映画「ラストサムライ」の中で渡辺謙が「パーフェクト・・・」といって死ぬあれだ。
生死に関わるような大きな問題だけでなく、日常の中の小さなことに対してもその様にあるべきなのではないだろうか・・。と、最近はそんなことを考えている。
自分で「よし、これでよし!コレデイイノダ!!」と認識し、自ら辞めようと思って辞めるのが最善だろう。
「長い間ありがとうございました!僕はこれを機に次のステージに出発します!!」
とか言って辞めるのが最善だらう。
そういう宣言が必要の無いことについても、自分の中でそういうケジメを付けて、“自ら”辞めることが重要なのではないだろうか。
それが出来ない人は、大抵の場合自然消滅という方向に逃げるのだろうけれど。
このブログは最後にどういう理由でどうやって終わろうかな・・・。
物事の終わりは新しい始まりでもある。
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