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その昔、僕は自他共に認めるTVジャンキーだった。
そもそもそれがこうじて放送関係の専門学校に行ったほど。

自分は一生TVを食い入るように見て、
世の中の動向というものに目を向けていなければ気が済まないのではないかと思っていた。
そんな生活、行動様式に、
「そんな事で良いのだろうか?」
と言う気持ちと、
「そうでなくちゃ!」
みたいな変なポリシーがあった。

朝も夜も関係なく、とにかく人に会った時は
「はよーございまーす。」
別れる時は
「お疲れ様デース」。

無論、フジテレビの事をCXと呼ぶ。w


昔あれだけTVが好きだったのに、
ここ数年、殆どTVを見なくなった。

その分、読書量が格段に増えた。


随分と沢山の本を読むようになったので、
自分はすっかり
活字中毒でござい!
などと、インテリ気取りで本を読みあさっていた昨今、
本当の活字中毒者というのは書く事に関しても貪欲な人の事を言うのだと言う事に気付きだした。

また、この活字中毒者にありがちなパターンを最近見い出した。

活字中毒になるには、ある程度、人生が上手くいっている人でなければならないと言う事。当たり前と言えば当たり前の事なのだが、
どんな文章であれ、量を書こうとすると大変な筈なのに、
そういった人は頼まれなくてもかなりの量の文章を書く。
人生が全体的に上手くいっている人でなければそれだけのバイタリティーとスピードは生まれないと思われるからだ。

僕は活字中毒の人というのは何故か憧れる。
その理由は、ある程度成功している人だと言えるからなのだろうか?
とも思った。

文章を書けるというのは、ただそれだけで仕事になる。
つまり食いっぱくれることがない。

「作家というのは究極の職業で、
最悪、死刑囚でも成れる職業だ。
だから作家などという人間にはろくな奴がいない。」
と言ったのは作家、村上龍の言葉だが、
文章と言うのはたとえどんな媒体で、かつ、どんな文章でも、
書けば書くほどお金につながるもので、
元手ゼロに等しい事を考えると、
誰しも活字中毒になって損はないと思うのだ。

ー追記ー
僕は今まで、・・・。
カッコ悪い話だと思うのだが、
それこそありとあらゆる物事に苦労して来た様に思う。
およそこの世で僕が努力してない事柄など存在しない!
と言う位に、かなりヒイキ目に見ても、
アホみたいに努力、努力の人生だったように思う。

そんな僕が唯一努力していないものがある。

実はそれが「文章を書くと言うこと。」

これに関しては本当に、な〜〜〜んにも努力してない。
したことがない。

僕が唯一小学校の時に賞を貰い褒められたのは作文であった。
文集静岡という小冊子に「久能の石垣イチゴ」
と言う作文が掲載された。

その作文は小学生らしい稚拙なものであったが、
その作文を推薦してくれた当時の先生は、日頃から僕の日記を高く評価してくれていた。
「久能の石垣イチゴ」と言う作品が特別良かったと言うよりも、
あの先生は僕の唯一の才をそういった形で認めてあげようとしたのだろうなぁ・・と、今になって思う。

僕は今、細々とだが文章を書く事で口に糊をしている。
毎日、このブログ以外で原稿用紙にして6〜7枚以上の文章を書いている。
絶妙な言い回しや言葉のセンスは追随を許さないであろう。
まだまだ活字中毒と言うほど文章は書けないが、
まがいなりにも文章で飯を食っているのだ。

皮肉な話だと思う。

要するに、大切なのは
「向いている事をやれ!」
と言うことなのだろう。

努力しなければ出来ないような事は慨して良い成果を生まない。


2011-12-18
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