
その話をする前に、
まずは「論理学とは何か?」についての名コピーを以下に紹介する。
ジョーは酒場で論理学の教授と知り合った。
「論理学ってのはどういったもんですか?」
「やって見せましょうか。お宅には芝刈機があります?」
「ありますよ」
「ということは、広い庭があるわけですね?」
「その通り!うちには広い庭があります」
「ということは、一戸建てですね?」
「その通り!一戸建てです」
「ということは、ご家族がいますね?」
「その通り!妻と2人の子供がいます」
「ということは、あなたはホモではないですね?」
「その通り!ホモじゃありません」
「つまりこれが論理学ですよ」
「なるほど!」
深く感心したジョーは、翌日友人のスティーブに言った。
「論理学を教えてやろう。君の家には芝刈機があるか?」
「いや。ないよ」
「ということは、君はホモだな!!」

さて、主題の「哲学とは何か?」についてだが、
これもネット上で拾った言葉を紹介しながら説明したいと思う。
哲学とは考える事。
私達は考えることができる。
考えてるのは脳。
脳はシナプスやらニューロンやらの集まり。
シナプスやらニューロンは細胞。
細胞は核やらミトコンドリアやらの集まり。
その核やらミトコンドリアやらはタンパク質、脂質。
タンパク質、脂質は分子の集まり。
分子は原子の集まり。
原子は陽子と電子と中性子の集まり。
陽子、中性子は素粒子の集まり。
考えるって何が考えてるの?
アナログ時計だって人間に時間という高度な概念を伝える機能を持ってるけど、
材料の歯車とか振動子にはそんな機能ないし、
もっと分解すれば原子や分子だ。
全ての本が入っている目録のなかに、その目録そのものは含まれるのだろうか?
誰もいない森で倒れる木は音をたてるだろうか?
誰も見てない時は月は存在しないのか?
僕はブラジルに行ったことは無いが、本当にブラジルという国は存在するのだろうか?
僕は今、パソコンの画面を見ているが、僕が見ていない僕の後ろ側は本当に存在しているのだろうか?僕が後ろを振り向いた時に、初めてそのとき「僕の後ろ側だった、今正面の景色」が作られる、若しくは発生するのではなかろうか?
そもそも人が生きていく意味なんてあるのだろうか?
この世の中の意味は?
もしあるとすれば、それは何者にとっての意味なのだろうね?
基本的に答えは無い。
ただ、大切な事は自我の存在を認め、
その自我をどの視点に置くかという事なのだろう。
その自我をどの視点に置くかという事なのだろう。
ああそうか・・・。
つまりこの世は「答えの無いなぞなぞ」の様なものだということなのだろう。
しいて言うならπ(パイ)である。
いつかは絶対に死ぬのに生まれてくる矛盾。不条理。
それがそもそもこの世の中の定義だ。
何故、死が怖いか?
これだけ人類が進歩しても誰一人として死後にどうなるのかは分からない。
だが良く考えて欲しい。
生まれた瞬間を覚えているか?
生まれる前の記憶はあるか?
私達はすでに死後と同じものを経験しているのだ。
どやっ!